例のごとく「歴史ってのは教会側が信者を安心させるために都合よく仕立て上げたでっち上げだ!」なんていわれたかもしれないような、まるで異端者扱いを受けかねないそしてダルクの如く業火に豪華に焼かれて死んでゆく彼の姿を、森の中からじっと見つめるまだ5歳にも満たない彼の息子と、密かに教会に復讐を誓う妻は、すでに彼は組織に実は本物とまったく見分けがつかない錬金術師が鉄を材料として作った金塊それも、国が一つ買えるであろう量を依頼金の半額を前金として渡していて、あとはその存在を悟られないように、教会の中にすでに紛れ込んでいる組織の人間を見つけ出し、彼から預かったこの銃を渡すことで事が実行に移されるが、誰がだれやらわからんので、息子と妻は、町の酒場にて働くことでその情報を得ようとしたが、しばらくして妻は拳銃と「砂浜のは本物」というそれっぽいメッセージを残してどこかに行ってしまったし、残された10歳になる息子はその拳銃の意味を知らないままだったが、ふとした事からまだ組織との契約が実行されておらず、依頼金の後金が行方不明のままだという噂を耳にして、彼は拳銃を手にして、歴史を変えるほどのその依頼金を探し出す旅に でるが、実はこれが組織のやり方で、現在でもその契約は生きておりそれを知った「レジスタンス」が唯一の手がかりである彼を動かすための罠だったわけで、でも彼は旅立つわけで、実は現在の電子レンジは万が一の時のために「金属探知機能」 が備わっていて、これを知る開発部の上層の人たちのみがなぜか電子レンジを脇に抱え、バリのビーチで「コンセントはどこぞなり」 ってな顔で、結局見つからなくって、帰ろうとしたけどもなぜか入国したときは何も言われなかったのに「ヘイユー!」とかってとめられて、怖い外人さんに電子レンジ没収されて幻の金属探知機能付き電子レンジとなってしまったかわりに、とても苦い 思い出と「やっぱ金属鍋はまずいよな?」的な歴史が作り出されたように思ったりするけれども、ほんとのところ誰も教会にたてつく ことができずにそれが唯一の真実として信じられてきたところがあるが、結局その少年のモデルになったのは酒場の踊り子で、なぜか 拳銃には十字架が掘られていたことから、これはカモフラージュだいやいやそもそもそのおとぎ話はこれまた教会のでっち上げだ とか、まことしやかな噂が絶えない今日この頃。御手洗潔が言ってたよ、「事実よりも雄弁なる教師はなしだ」ってね。でもハインナインだよね。そうやっていままで生きてきたわけだから。 でも、やっぱりとうもろこし農園を経営するマークとジョアンナの夫婦は、いつもけんかが絶えなくて、とうもろこしがいつも手元にあるもんだから、とにかくとうもろこしが投げつけられて、数十メートル 先のマッキーニ夫妻の所まで飛んでいくもんだから、おお今日もゆでたとうもろこしかといささかベルモント・マッキーニ(58)さんも もう少しレパートリーはないものかのうとか、言ってたらしいけど、ゲルダ・マッキーニ(54)さんの証言によると、あらあらこんなに 大量のとうもろこし食べきれないわ、ジョアンナさんにおすそ分けしようかしらとか言ってたらしくて、結局その年のマークのとうもろ こし出荷量が大ピンチで、ものすごくたくさん作ったはずなのにおかしいなあとか、首をかしげながら、たまたまとおりかかった ベルモントさんちは、別にとうもろこし農園でもないのにとうもろこしが山のように積んであって、気がいいマークはベルモントさんにあなたもとうもろこし農園をやられてはいかがですかワッハッハーってなことになったらしい。 ところであなたは、みかんを食べるために皮を剥く人だろうか。それとも、皮を剥いてしまったがためにみかんを食べざるをえない状況に置かれた人だろうか。本来ならば、こういった選択は自分の意識の中で行うものだが、一回一万円のヘアサロンに行く理由を考えれば、おのずと答えは見えてくる。第三者にだって決定は可能になる。それに、ビールの泡を嫌う人がいるが、ビールを好きで飲む人に、ビールが嫌いな人はいない。さらに、ヴァンピネラやカッサンドラのような似て異なるものならなおさらだ。互いにゲムとパウラは同調し合えない。それは、数字で構成される式や物理法則で説明できるものではない。回転が足りないからといって腕を思い切り振り回したってどうにもならない。しかも、勘違いが限界を超えるためのエネルギー源であるということが支点となる場合が多い。実際、本のしおりとしてはさむのは何だっていいわけだから、有機物でもかまわないはずだ。しかし、そのタイトルが重要視されることは少ないし、そこに固執したとしても、勘違いであるということは誰しも学習するチャンスがある。江戸時代には、侍は試し切りをよくやっていた。人によっては夜。また別の人は昼。両者の違いはさほど無いように感じられるが、スピーカーには表と裏が存在しないように、彼らにとっても夜と昼は存在しえない。カメラマンだって、確かに現実世界を見てはいるが、レンズを通した映像を脳内に再構築している以上、他方の現実のみで認識しているとは言いがたい。だからこそ、彼女達の中に存在している神という存在も、20年後の仮想現実も同じカテゴリに定義されている。ここで、未来予知や透視といった超能力、また、霊や祟りといった超常現象の次元は「未定義」とされている。だからこそ前述したものが定義できる。一応、理性よりも感情の方がコンパイラ的なところが多い。しかしこれも、超能力や超常現象などの未定義のカテゴリが定義されているからこそ成り立つ。そもそも、委嘱上の情報や、先入観などの清浄作用がカテゴリとして定義されていること自体がおかしい。誰だって鶏の卵を割ることは出来ないのだから、これらの作用は別のサイドに移入するべきだ。また、初期知識情報やデビュー、ジャビューのような解体要求は定義されることは無い。これらは未定義であることすら許されない。「己の尾を食らう龍」や「無限リング」であっても、これらの作用や要求によって無視できる。そこに存在していた長さという概念、さらには強弱さえも無視することが出来る。すると動きや流れなどの異時間的なことさえ意味を持たなくなる。それは、現実世界ではあまり関係の無いことなので、定義はされていない。未定義でも無い。だからこそ、実の無いみかんの皮を剥く人もいるし、ビールの泡だけをすする人もいる。カメラマンは本にしおりをはさむ事はない。 また、哉千藩が言う。これは幻想ではない、しかし現実でないことも事実だ。 その機会はこれまで幾度もあった。いずれも、作品として自分が納得できるものであったのもかかわらず。それを表現しなかったのは、決して満足したいと思ったからではない、ということだ。イメージを完全にゼロから構築することも、ゼロにすることも不可能であるがゆえに、絶対的な時間が常に干渉するし、極論はエンドリストにとどめておかなければならない。それらは個人の言論、行動、思想に影響し、場合によっては常識から逸脱することで破棄できるが、良くも悪くもそれは社会の病気と呼ばれる。しかしそれは、神の存在を信じている者が科学を否定したり、その逆だったりするのとよく似ている。矛盾ではなく、妥当なのだ。知ってしまえばなんてことはないが、それを否定している以上。また、絶対的なものであるか、曖昧なものではないと信じている以上。目の前のものは見えないようになっている。ただ、ビットのように“0”か“1”かしかないのであれば、それは解答が間違っているのではない。そもそもの既定が信じがたい考察と、ありもしない審査によって選考されたと見るべきだが。しかし、それに背く事が神の存在を証明することにはならない。それはすでに科学なのだから。といっても、科学を信じることはつまり、神を信じることと同義なので、それまた科学の存在を証明することはできない。陸鳥の目はなぜ赤いのかという問いに、誰もが答えることができるし、誰も正解を答えることはできない。それが神の証明であり、科学の誕生でもある。“1”のみでは両者とも成立しえないので、常にそれ以外の存在を望んでいる。これが、成長のためのデスパイスとなり、多くの芸術家や研究者は満足することなく生涯を終える。だからこそ無言は“YES”であり、そうでなければ“NO”ではない。そこには、三番目の問いが隠されているが、これを問うた者はいない。彼らを否定する者は、自分の人生に満足し、また、彼らを否定する者は自分に酔い、その彼らさえ否定しようとする者は、人生とはなんだという取るに足らない問いを下す。結局は、全てが終わった後に見えるということに気づくことはない。だから人々は夢の中身など覚えておらず、イメージは曖昧なまま定着する。 満足することで、これが終わるわけではない。しかも中間型の人間でありながら、暗記ができない、ゴロが取れない、ルービックキューブができない、ナイ無いない。なんとかこうとか、ヘッダチェックサムの理由は分かったが、なぜに阿部くんが悪霊払いをしなくちゃいかんのかサッパリわかりまへん。さらにシーケンシャルで、懐疑的で、非2ちゃんねらーなぼくは、回転木馬でできたトイレがよく似合う。という焼きニックンを情景化して美彩化した彼の濡れ衣を着てみたいなーなんて。そんなこと本気でいってるわけないじゃないかーと、大声で言っては見たものの、愛も変わらず。願いもかなわず。それもわからず。究極の会合。という、非良心的な心もちで透明な壁にブチあたる。なぜぼくはこの壁の向こうにいけないのか?と、まるで松本ひとし似の門番になぜ日焼け防止のために100円の帽子をかぶらなかったのか問い詰めると。あああれよあれよという間にかえるがのみこまれ、それはね、ぼくは元々ステーキが好きだからだよとこたえられ、あきらめもついた。そして、一歩引いてじっくりと考えてみると、走行しているうちに目の前の見えない壁は消えていた。魚がつれなくてもえさのせいにしちゃだめだよと、隣のひげの長いおじさんに諭され、ああ僕はここにいてもいいんだ的な閃きで、ああハナッから壁なんてなかったんだという境地にいたった今日このごろ。などと意味深で意味のナイ前置きはさておき なんだかSとMは表裏一体だという話をきいた。だから、たとえ演技をしていたとしてもそれは実態のある行動なんだと。 よく、人間関係に疲れたとか言って、今後の人生に何ら希望も道筋も見出せない中学生が自殺することがあるが、それさえも演技だと言うことがある。周りから見ればそれは間違いなく事実であっても。 世界中を、金もなくコネもない着の身着のままの状態で旅しつづけた男さえも、安息の地を見つけたが最後、その甘い誘惑に耐えることはできない。で、結局抜け出せなくなっちゃう。 だからといって、男の、安息の地を求めるその嗅覚を奪い取るというのは早計で、そうしてしまうと、実態と演技が完全に切り離されてしまう。 身体機能とは関係なく、その境目は変動する。意識していてもしていなくても、実態を演技することで周辺の反応を楽しんでる。 だからって、それが罪になることはない。だから、責めることもしない。でも、ほんとにそうなのかは分からない。たとえばシマウマには、シマウマという名前がついてるからシマ模様なんだ、とか。 ウミネコは、ウミネコという名前だから海にすんでるんだとか。キャットフィッシュは、そんな名前だからひげが生えてるんだとか。 なんかそんな話になったが(飯時に話すことか?)、それは違うと思う。(たぶん)そうすると、キリンは、神獣の麒麟に似てるからキリンなんだとか。 いのししは、いのししという名前がついてるからいのししなんだよとか孫に教えなきゃいけない。そんな日本にだけはなってほしくない。(意味深)本来ならば、まっすぐ生えていた植物も、太陽が傾いたりするから、かれらも首を傾げなければいけない。(選択として3つ。反対を向くか、動かないか、そして太陽のほうを向くか)ところが、植物には罪はないなんていってる人たちもいる。 そんなことはえんどう豆の実験からも推測できるように、サイやカバとおんなじだ。(彼らもまた選択を安易に選んでいる。そのため、そこに選択肢があることさえ気づかない) かえって、その場から動か(け)ないというのがまた太刀が悪い。(水分がほしいのならば、水があるところにいけばいい。ぎっしりと根を張ってやってるじゃないかといっても、それは言い訳にしか聞こえない。結局水を吸い上げているわけではなく、蒸発圧と大気圧を利用して、パイプの中を通しているに過ぎない) 人間ものどが渇くと水を飲むように、植物も太陽がいるほうを向く。かえってそれが不自然だったりすることもあるが(リストの指先のように)、常識的にはそれが自然だ。(バッハの楽曲が、練習用によく使用されるというのもこれでうなずける) 以前、見せたと思うのだが。テルが書いた文章について、いろいろと調べてみた。ただ、コミュニケーションの手段が違うというだけでものすごい文化の違い。当然、それはあるのだが、少数派の人たちがあまりにもその違いに影響されすぎている。 もう少し気楽にならないんだろうかなと思うが、それはやっぱり自分らの考え方ね。また、その人らは、ものすごいプライドを持ってる。(おれはプライドという言葉はあまりよくない意味で使う)自分らのアイデンティティーを守るためにそうしてるんだなっていうのがよく分かる。このことから考えるに、昔の人は左利きが多かったということがわかる。 戦後、左利きは良くないと教えられるようになり、おそらくこのことが理由で横書きの文章は左上から右下に向かって書くようになったと思われる。 そこで疑問、なぜ縦書きの文章は昔と変わらないのだろうか?左上から右下に向かって書くようになってもおかしくはないのに。今では、左利きは良くないとか言うようなことも聞かなくなった。 逆に左利きは右脳が発達し、芸術的センスがあるということが知られている。22世紀の詩人は、横書きの文章を右から書くのだろうなあ。 アイヌの人たちだって、アザラシ獲ったあと、海の神に祈りをささげ、アザラシの肉を一切れ海に投げ込みます。 クリスチャンだって飯食うときは神に祈ります。「今日もおいしい食物をありがとう神様」って。自分たちの心の中にあるわずかなひずみをそうやってできるだけ解消するのが人間。 いいか悪いかは別として、その行動自体の意味や本質を忘れるのは保身をと売り越して、ただ無責任なだけです。相変わらず夏の日差しは厳しくて、水の消費量が自然とガボガボ…飲み すぎて、井戸がかれてしまった。そしてびわを食らう。ダンジョン探索型CGIのプロトタイプが動いたものの、探索の目的がなんだかわからず探索中。そして、誰かカキピーのうまい振り分け方を教えてくれ。 経済の乗数が1であるという重い話から、殻の中の鶏は殻を割ることはできないといったコロンブスが喜びそうな話まで、最近いそがしいなあ。 次回は、ビタミンデザイナーと、超重量級の(これまでの道路では運行不可能な)トラック(こう呼ぶのはもはや不可能)のお話し。 それから、ここの国の宗教の位置付けってば実に曖昧で、「体が小さくても心が大きければいい、体が大きくても心が小さい人もいる。」そう言う人が大 衆から拍手を受ける時代。これが、宗教を道徳教育に使わなかった日本の倫理観念のなれの果て。 好きな色は?と聞かれて、青色と答える人がいる。なぜか?と聞かれて、水のように淑やかで、空のように開放感があるからと言うかどうかは分からないが、なにかしら、その色が好きな理由があるはずだ。それは、本当にその人が淑やかで開放感のある人だからなのか、それとも、その淑やかさや開放感が足りなくて、欲している人だからなのか、どちらなのかは分からない(自分で分かっている人もいるが)。どちらも似たような事なのかもしれないが、ある一つの色に対する思考には表裏の両極端な性格がうかがえる。 そこで、一般に反対の特徴を持つ色について聞いてみる。青の反対は赤だろうか。赤はどう思うか?と聞くと、活発だとか興奮だとかいうイメージがあると思う。それらの答えによって、先ほどの青に対するイメージが、表のものなのか裏のものなのかの判断をするための手がかりになるだろう。しかし、赤はあくまでも一般で、人によっては緑や白が青の両極にある色だと言う人もいる。間違えた、表裏じゃなかったね。 ここで言ってるのは表だけについての考え方だった。裏っていうのは、例えば青色なら冷たいとか冷静とかいうイメージ。ここでは表だけの可否の問題だった。 けれども、農業は効率と収益を上げるために、蒔いた種の全てを回収しようとしてプレハーヴェスト農薬を散布するし、収穫物が腐らないようにポストハーヴェスト農薬を使っています。これまでそうやって農作物の流通過程で効率化を行った結果、当然ながら農薬による被害が拡大しています。 商業でも、効率化を追い求めた結果、ある一部の収益は上がったかもしれません。けれどもそれ以上の被害が、目に見えない部分で静かに広がっていたことは、すでにそれが具現化されてきたことが周知の事実です。 教育に至っては、反対のことが起こっています。農薬を使わないというのはいいのですが、農薬がないというのはお偉方がこれまでそのことに目を向けなかったというだけです。しかし、そのために良い人材が育ったかといえばそうでもありません。お偉方はそんなことにも無関心だからです。だから、蒔いた種はカラスに啄ばまれ、かろうじて収穫された作物はすでに腐っています。 「コメ百俵の精神で」というなれば、もっと実感できる、もっと創造できる教育を行うべきなのでは?という声が多く聞かれる一方、ただ多くのことを効率よく教え込み、とにかく見た目はいっぱしの学生を育て上げる、そんな人材育成を行っている企業も在るのです。 教育で一番大事なことは、受ける側が、与える側と共通の認識を持つことです。そのために、受ける側は与える側の考えを理解するための堅実で創造的な学習を、事前に行わなければならないし、与える側は受ける側の意識を導くための道筋、それも受ける側がどんなところに居ようとも必ずゴールにたどり着けるような道筋を、これまた事前に用意しておかなければならないのです。これが教えるという行為を行うための最低限のマナーです。 もちろんこのことは、すでに小学校のころから言われるでしょうから、誰しも知ってはいるでしょうが、傲慢な教育者に限って、「教えてやっている」という意識が拭い切れません。彼らの研究と、学生の教育の重さは、天秤で量らずともどちらが重要であるかは誰の目にも明らかです。それに気づかないのはまさに愚かな教育者だけです。 小泉さんも、日本を建て直したいのなら、まず全国のコンビニと大学をつぶしてしまうことからはじめないと、小さな事をいじってても何も変わりません。すでに日本の個有値は、原状回復の場所には存在せず、100年後の日本を作るための糧になるべきところにあります。多くの都市論が、世界の中心は西に移動することを指摘しています。この日本を世界の中心としたいならば、50年100年先に、どうなっていればいいのか、何が必要か考えそのための準備をするべきです。目先のことにとらわれることはまさにこれまでの日本がそうだったように、袋小路に陥っているようなものです。そこに日本の未来はありません。いずれ中国に吸収されるでしょう。
(上手な文章を書きたい人は、この根拠も帰結も何もない非科学的な文章を決して読まないようにお願いします。)