「いわゆる、骨董品の価値を従来の希少価値だけではない“持ち主の思い”で数値化した事例もあって、 仮想現実との組み合わせで完全にモノが数値化された世界を作れることは想像に難くない。 だからあえてリベルは、数値化された価値の概念を取り払う必要がある」
「えーっと、つまり、人々はリベルを介して商流を作るけど、リベルそれ自身に数値的な概念は無くって、 あくまで人間として感覚を読み取ることができる力を持てばいいと?」
「リベルがなぜそのようなことが可能になるのか、ということについては、 リベルの成り立ちから、人々がリベルを受け入れるに至った歴史を形作ることが重要だ。 大事なのは必要性ではなく、何かを排除した結果それが残ったという歴史だ」

Chapter91 [プライヴェート・アーカイヴ]

「リベルはカード型みたいなものを想像してたんだけれども、 そもそも受動的な感情操作から離脱した人たちが物質的なものに対してなにかしらの感情を持つかどうか、 ということ自体が矛盾しているような気がしないでもないんだけど。 うーん、なんだろ。五感的なものに縛られるようなモノだと、 現状の相対価値観と大差ない状況しか作れない。 かといって虚数値とかアストラルとか掴みようがないものを絶対価値として規定することは良くある話で、 時間的な制約を持った価値観というのも面白そうだけど」
「ではいっそのこと制約とは逆の歴史的価値観による評価というのも面白いのでは?」
「でもそれってどうあがいても価値観の停滞を助長するだけで発展性は無いよね」
「絶対的価値としては光子を使った何か。あるいはイデアの流れをくむ思考実験のようなもの。 そのような観測者がいなくても成立する存在が候補として挙げられる。 そしてそれを通訳する流通市場の人たちがいて…これもちょっと矛盾があるが。 無の大きさを比べる、という言い方が一番近いのかもしれないが、 あまり今の感性とかけ離れてしまうと今度はその実験自体の観測者がいなくなってしまう。 だから通訳者の存在は大事にしないといけない」

「単純に絶対的価値観に落とし込もうとしているアプローチ自体が実はあまり適切ではなくて、 いったん観測できない感情操作に変換して、 そこから相対価値観を生成してやれば案外あっさりとリベルの価値というものが定義できるのかもしれないのでは?」
「そう、感情を受け取ろうとする人だけがリベルに没入することができれば、 それは外から観測することはできない。 観測できるようにするには別の形で出力を得る必要があって、 それがいわゆる相対的価値観であり加感情媒体でもある」
「それはつまり、現在の通貨による価値観の売買は、発信者にとっての絶対価値と、 受信者にとっての相対価値の交換なので、物質消費の世界にとっては適切な形になってると。 そこを逆転させて情報消費としての価値を考えると、情報を得ることによって体験できることを提供する形になるわけだ」
「そうだ。発信者にとっては相対価値となって、受信者にとっては絶対価値になる。 これが仮想世界の価値観」
「現実には存在しないんだけれど、仮想世界にだけ存在するような情報に対して価値を見出すのは、 そこに体験感という発信者と受信者の間で共有できないモノがあるからだよね」
「それこそが相互観測の間で存在は観測できるが大きさは測れないモノ、いわゆる“無”だ」
「“無の大きさ”という価値観に今のところ近いのはビットコインみたいなものだけど、 MR内での3Dデータやモーションデータなどの仮想存在にこれを紐づけることで、 発信者にとっての相対価値と受信者にとっての絶対価値を実現できるね」
「“無”だけど大きさはあるのさ。ただしどのスケールで測るかは観測者次第であって、 時間であったり熱量であったりそれこそ金銭的価値観であったりする。 しかし受信者にとってそんなことはあまり関係なく、単なる体験で済む。 だから受信者には翻訳が必要なんだ」

「いわゆるアストラル体も物質世界では無のようなモノだけれど、 これを情報価値として時間や熱量と紐づけることで価値が生まれるんだね。 ただしこれを流通させるということろにはもう少し工夫が必要そう」
「感情というエレメントだけであれば流通も可能だが、 それらが複合的に関連し合うネットワークとなることを考えるとそれはある種の性格を持つ。 ただしこの段階では自意識や自覚というモノではないので流通に支障を来すことはない」
「もしリベルがそういう感情エレメントを持ったネットワーク内での単なる識別子として振る舞うんだったら、 それは通貨としての役割を果たすことは可能なのでは? 相対価値としての物々交換が成り立ちそうだけれど」
「問題は感情エレメントに対して識別子以上の価値を翻訳してしまうシステムができてしまうと、 それはもう単一エレメントとしては機能しなくなり、所有者はまるでそこに自我があるように錯覚してしまう事だな」
「そうか、もし仮想自我が付加された感情エレメントに対して、 所有者が情というものを持ってしまうと流通に支障をきたすわけか。 所有することが目的と化したリベルは価値交換のシステムとしては終わってしまうからね」
「そこで重要なファクターとなるのが忘却のシステム。 いわゆるリベルの特性である感情エレメントに時間経過の概念を導入して、 所持自体が価値を減らすようにする。 もちろん価値自体は感情エレメントが持つ“新しい体験”という糧を得ることによって絶対価値が変わることはない。 それは受信者がリベルを受け取り新たな体験をすることで、価値を維持し流通を促す」

「うーん、リベルに関する一連の考察については、システムがちょっと複雑になりそうな感じがするから、 もう一度リベル自体のデザイン側と利用者側からの視点で考え直す必要がありそうだね」
「そうだな、翻訳者からは複雑に見えていいんだが、使う側からはシンプルに見えるようにした方が良い」


「おめでとうございます。問題なく新規リベルとして登録されました」

ここは紙幣管理局のリベル登録課。いつものお姉さんからの報告で、 僕は久しぶりに喜びが込み上げてきて、思わず「やったっ!」と大きく手を振り上げてしまった。 自分でデザインしたリベルが流通に乗るというのは、いつもドキドキする。 お姉さんも「またよろしくお願いしますね」と微笑んでくれた。

Chapter90 [お祭りが終わる夜に]

家に帰るとさっそく兄が「おみやげは〜?」と、僕の仕事の喜びをまったく無視したかのようにすりよってくる。 紙幣管理局からの帰りにシンプルなデザインのリベルで買った照り焼きチキンを渡す。 あれくらい思い切ったデザインもたまにはいいなとも思ったりする。

このリベルというもの、人手に渡れば価値が上がるように管理されている。 つまり流通度や流通距離などによって価値が上がっていく。 ただ、特殊なものだと流通させないで価値が上がるものもあるらしい。 それとリベルのサイズは決まっているものの、デザイン自体に価値を見出されていて、 これは管理されてはいない。 文字通り規格外のものをたまに見かけることもあるけど特殊なケースだと思う。

こどものころはみんなリベルをデザインして、登録しに行くのが恒例の行事だ。 それから特にリベルに関して興味を持った人は、僕のようにリベルのデザイナになったり、 外国人観光客を対象とした価値翻訳者になったりする。 僕は登録課のお姉さんに褒められたくて始めたこの仕事だけど、 ふと、この二面性に考えさせられることもあって、未だによく分からない。 昔はリベルに絶対的数値による価値基準を定義することも議論されたらしいけど、 あまりにも合理的すぎて多くの批判が出たらしい。 そういう国民性なのかもしれない。

「それでさ弟よ、今日お祭り広場でこれ拾ったんだけどさ」と言って兄がリベルを渡してきた。 それは一見していかにも僕好みのデザインだけど、 リベルとしての価値はゼロだった。 新規登録されたリベルに関しては初期報酬の意味もあって、 登録課が決めた最低ラインの価値が付随するものなのにだ。 価値がゼロになってるというのは誰かから盗まれでもしたのかな?

紙幣管理局では流通度のほかにも現在の持ち主などの情報も管理がされていて、 リベルが盗まれた場合や複製された場合でも、 持ち主以外がリベルを使用すればリベル情報にロックがかかる。 ただし、たとえリベルとして使用できなくなっても、デザインされた芸術品として、 蒐集家にとってはその対象となって裏で取引されているらしい。 変わった人たちだ。

兄が言うには「このいかにも頑張って計算してみましたっていうデザインってさ、 お前のデザインなんじゃないかって思って持ってきちゃったんだけどさ、知らない?」とのこと。 僕はまだデザイナとしてはひよっこな方で、 リベルの登録数も今日ので6件目だ。 もちろんこのリベルに見覚えはない。 流通課に相談してみようかな?と思いながら僕も照り焼きチキンに手を伸ばした。



師走の時期。僕はふと、冬の木枯らしの中で温もりのような妙な違和感を覚えた。 閑静な街角で立ちすくしてしまった僕の目の前を遠い地元にいるはずの友人がいた。 彼は僕に気付いたようだったけど、目を合わせずに通り過ぎて行った。 そしてまた、違和感を感じた。 今度はよどんだ空気の中で、名前を思い出せない赤い花の香りを感じていた。

Chapter89 [歩く者とネコ]

「僕はあの時、ドッペルゲンガーになってしまったんだ」 僕は彼女にこう告げてから、少し間があって、彼女は 「でもドッペルゲンガーって普通に会話したりしないんでしょう?」と、 普通に会話で答えた。 「でも影がない!こんな異常なことがあるわけがないじゃないか」 僕はでたらめなことを言っているわけじゃなく、 確実な根拠があって彼女に相談している。 「影がないことはドッペルゲンガーの条件じゃないし。 あなたに嫌気がさして家出してんのよ。そのうち戻ってくるわ」 いまいち信じてもらえそうになかった。

彼女は近所の神社をねぐらにしているせいか、 ずいぶんと身軽な格好をしていて、ふいに男子に見えたりする。 ねぐらにしているといっても実際にそこで寝泊まりしているわけではなくて、 子供が秘密基地を持つように、神社の裏手で日中すごしている。 まぁ昼寝くらいはしているかもしれない。

そんな彼女に、自分は別世界から来たようなものだと説明しているから、 あながち浮世離れしてる彼女からすれば案外普通のことなのかもしれないと思えてくる。 彼女は「あたしがマキヤの最中が食べたいって言ったの覚えてる?」と聞いてきた。 僕は思い出そうとしたが、彼女が洋菓子よりも和菓子のほうが好きということくらいしか 思い出せず、そんな話をした覚えはなかった。 「それは本来の人格のほうだ。僕は今、彼と入れ替わっているんだから」 と答えるしかなかった。 入れ替わっている、そう、物理的にか精神的にか分からないけど。

「僕は自分を助けたいと思ってる。たぶん別の世界で困ってる」 自分が自分を助けると、僕がどうなってしまうのか想像もつかない。 そもそもそんな方法があるのかも想像できない。だから彼女に伝えた。 彼女はニンマリとして「ならクガタチって知ってる?」と聞いてきた。 それも本来の僕と話した会話だろうか?僕は知らないと答えた。 「クガタチ、はね、神事の一種でうそつきを見っける方法なのよ。 煮えたぎった釜の熱湯に手をつっこむ。うそつきなら大やけどするけど、 そーでないなら何も起こらない」 「僕は嘘はついていない」 「話は最後まで聞いて。クガタチを応用してこの世とドッペルゲンガーの世界とをつなぐ。 あなたはただ熱湯に手を突っ込んで、本来の自分を引っ張り出せばいい。 やってみる?」



テレビの姓名占いで、今日はSATOの苗字がツイてるって、 そんなあいまいな運にすべてを賭けていた、のに……。 なぜこのタイミングでこの苗字が仇になるんだ! 僕の決断がもう少し早ければ、僕の勇気がほんのちょっとあれば。 放課後になって、とにかく僕はARAIさんに告白してフラれた。 ARAIさんは「SATOくん達みたいになりたくないから」といって僕の前から走っていった。 遠くで振り向いたかと思うと「SATOなんて嫌い!」と叫んで、 SATOという形をした弾丸が僕を貫いた。

Chapter88 [軽い十字架]

近年、政府は少子化対策、及び財政破たん回避のための政策として、 苗字の多さに応じて国民税を減税する法律を制定した。 夫婦別姓という世界の流れに逆らうかのようなこの『苗字減税法』。 政府の混乱を体現したかのようなこの法律は、ついに昨年施行された。 これにより家柄としての結びつきを強化し、 家柄を大事にしない若者へ地域社会における連携を期待していた、 というのだが、実際にはこのありさまである。

多くの人口となるKATOやWATANABEは優遇され、 少数苗字からの嫁入りが増えるようになった。 将来的にはその差は大きくなるものと論じられ、 希少な苗字はさらに少なくなっていくように思われた。 それに対して元から家柄へのこだわりというか、 それを大事にしていた人たちは、 元から大地主であったこともあって特に大きな影響はないようだった。

苗字が多い人たちにとっては自分たちが優遇される政策に見えたのだろうが、 問題は、さして多くは無い苗字の人たちの反発だった。 僕の前から遠ざかっていったARAIさんも苗字減税法には反感を持っていたようだが、 ARAIさんだって減税を受けているはずで、僕がフラれた原因はそこにはなかった。

ARAIさんは2年前、僕の通うこの学校に転校してきた。 女子たちの噂によればARAIさんは家庭の都合で引っ越してきたらしいが、 重要なのはそこじゃない。 ARAIさんの前の苗字がSATOだったということだ。



粉雪舞う夜空の下では、 多くの家族連れやカップル達がそれぞれ自分たちの夢があるところへと足早に向かっていた。 夕方から降り続いている雪はすでに、そんな人々の足にまとわりつく程度に積もっていた。 「SRAMはいかがですか……」 一人の少女が夜空へ向かって声を出していたが、声は降りしきる雪に吸い込まれていった。

Chapter86 [SRAM売りの少女]

彼女はスラム街で育った。身なりもそれなりのものだったが、 大事な商品が入ったカゴは金属製で、少女には少し重たそうに見えた。 ただ、少女にとってはカゴが重い事よりも、肌に張り付くような冷たさが体を震え上がらせ、 寂しさを思い出させた。

父親は何かの研究者だったと、病気に伏せている母から聞いたことがある。 母が稼いできたわずかばかりのお金を何かの研究につぎ込み、 ついには少女が2才のころに何処かへ行ってしまったらしい。

「ちょっとSRAMであったまろう……」 父が残していった大量の1ワード4ビット、アドレスバス8ビットのSRAMをソケットに刺し通電させる。 ほんのりと暖かくなり、昔友達と遊んだ春の日を思い出す。 楽しかった日々はすぐに夏の思い出になり、秋の寂しさを連想させ、冷たい冬に戻ってきた。 SRAMにかけられた電圧が高すぎて、すぐに壊れてしまったのだ。 少女は電圧の事なんて知る由もなかった。

「SRAMはいかがですかっ……」と、大声で叫んでみると、 行きかっている人の中からカップルらしき2人組が近づいてきた。 まだ顔に幼さが残る青年が 「ちょっとSRAM探してるんだけど、1メガバイトくらいのある?」と聞いたが、 少女はメガという言葉に聞き覚えはなく「128バイトなら……」と答える。 傍らにいる女性が「いまどき珍しいね、そんな小容量なんて。メーカはどこなの?」 と聞いてきた。 「メーカ……分かりません。父が作っていたものですから」 「えーっ!自作なの!?」と驚く二人。 そんなに珍しい物なのだろうか。 「ピン数から見て1ワード4ビットだね」 「じゃこれで4004でも動かしてみようよ」 そう言って2人はSRAMを買ってくれた。 少女は受け取った硬貨を握りしめた。 最初は冷たかったが、手のぬくもりで硬貨はほんのりと暖かみを持った。

スラムにはSRAM売りの少女がいる。



とある古びた街に赤子の産声が小さく響いた。 「おお……この子は……」つい産婆は驚いたようなそぶりを見せたが、 周りの助産婦たちには気づかれなかった。 このことはすぐに長老に知らせなければならない。 この子こそが、姫さらいの謎を解くカギになるのかもしれなかったのだから。

Chapter85 [剣と盾を持つ者]

女子が姫と呼ばれ、いつしか魔族にさらわれるようになってからもう何十年と経った。 男子は盾を持ち姫を守る。いつしかそんな風習ができた。 南の方で作られる特殊な盾は、その不思議な力から男子だけが持つことを許された。 なぜか姫たちには地面に張り付いたように重く感じられ、持つことさえできなかった。

十何回目の誕生日の夕食、コトラは考え事をしながら鶏肉をほおばった。 「早くお前も姫を守れる男になるんだぞ」コトラの父は髭にビールの泡をつけながら笑った。 彼は周りの子供たちよりも成長が早く、すぐにでも姫を守れる男になると期待された。 剣技についてはだれにも負けないが、ただ年齢のためか、まだ盾を持つことはできなかった。 いつか主となるコトラの目の先にあるのは、魔族を跳ね返すといわれる盾だ。 月明かりに照らされて、ほんのりと光っているように見えた。

同じ夜空の下、窓を開け放って星を眺めながら 「私を守ってくれる盾はどこにいるのかしら……なんてね」とつぶやいたのはユウキ。 先ほど酔った姉を殴り飛ばしてから自分の部屋にこもり、自分が姫さらいにあってしまう事を考えた。 先日、長老から呼び出され「これがお前の盾となるだろう」と小さな指輪を渡された。 そして「お前は姫さらいについてその謎を追い求める宿命の元に生まれたのだ」なんだかんだと話が続いた。 でもそんな面倒なことになるのは嫌だ、早く盾となってくれる人を見つけなければならない。 扉の外から酔った姉が「そんなに怒らないでよ〜勝手に触ったのは謝るから〜」などとほざいているが、 普段からそんな様子だ、むしろ私の代わりに姫さらいにあえばいいのに。 そして小さな指輪をもてあそびながら、これが盾ってどういうことだろう?と考えながらいつしか眠りについた。



空中に浮かぶポップな色合いが特徴の佐藤さん家が、 光に包まれて消えるまでほんの数秒だった。 佐藤メルタが目を覚ましたのは割と古ぼけた色合いの下町のようで、 空き地に横たわるメルタの目の前には2個のおにぎりが供えられていた。

朝食を食べたばかりだったけど、なぜかお腹が空いていて力が出ない。 くいしんぼの本領発揮と言わんばかりにいつものように何も疑うこともなく目の前のおにぎりをほおばって、 思ったより口の中に広がるお米の甘さになぜか涙が出てきた。

Chapter84 [時計仕掛けのステージが廻り出すとき]

「おねえちゃん、そのお面いつまでかぶってんの?」 おにぎり屋を開店してすぐひいきになってくれたタクマ君は、 まだ子供のわりにはニヒルな表情で疑問を投げかけると、おにぎりを品定めし始めた。 隣りの定食チェーン店で働く兄の友人のために昼食として差し入れるのが日課になっていた。
「お面?なんのことですか?」 最初にこちらの世界に来たとき食べたおにぎりのお皿にレシピが書かれてあって、 それを元に開いたおにぎり屋だったけど、この味はこちらの世界でも人気があるらしく 評判は良い。 それなりにお客さんも増えてるし、 ついでに元の世界に戻るための協力を申し出てくれる人もたくさんいる。

「んで、アニキが隣りの定食屋の客を奪うんだって」 そのために毎日おにぎりを買いに来ている? 「だめです、タクマ君。おにぎりを配るんじゃなくって、ちゃんとお客さんを連れてきてください」 おにぎり12個を新聞紙にくるむ。 「でもアニキがブラックなんとかの人たちの舌を狂わせるんだとかって言ってて」 タクマ君のよくわからない言質は取らなかったことにした。

人手が集まれば、あるいは何らかのパーツがそろえば元の世界へ帰れるのだろうか。 こちらへ来たときに得た残滓のような味を思い出しながらおにぎりを製造していたとき、 店の通りにトラさんが歩いてきてこちらを見ている。 おにぎりを食べたいのだろうか?……トラ?



今夜の僕の仕事は彼女を殺すこと。 といっても拳銃なんかは使わない。使えないのだ。
翌日、彼女の躯は海岸に流れ着いた。 これでも彼女なりの贖罪のつもりなのかもしれない。
彼女の戦いのためには必要なことなのかもしれない。

Chapter83 [インフォニアバレット]

彼女が勤めていた企業は世界の拳銃製造のトップシェアだと聞いたことがある。 人は守るべきもののために武器を買う。快楽のために、安楽のために拳銃を買う。 最近の拳銃は、昔の無骨な印象は無く、一種のガジェットとしての役割を担っていた。
数年前、この企業が企業が無名のガジェット連携技術を持つベンダーを買収したことが小さく報じられた。 人々は大して関心を寄せなかったが、拳銃という武器がネットワークにつながった瞬間だった。

あるとき、金融市場の混乱をトリガーとして、各地にある拳銃が火を噴いた。 家庭内のあらゆるガジェットと連携して空間認識を実現するソフトウェアがバックドアになっていた。 拳銃のウェイトアシストによる自動照準、安全解除される生体認証トリガーシステム。 たとえ机の中にあったとしても、その部屋の中にいる人にとっては、 目の前に拳銃を突きつけられたようなものだった。

この企業の世界中にある拳銃の約20%が火を噴き、数万人がその犠牲となった。 他の拳銃が動作しなかったのは、彼女がインフォニアシステムの異常に気づき、 システム停止コマンドを実行したためだ。 ほんの数秒、コマンド実行が間に合わず犠牲となった人もいる、と彼女は話していた。 そして彼女はこの企業から去った。

彼女の躯は、DNA情報から人体造型プリンタで組成したものだ。 DNAの型が完全に一致するため現代の技術では簡単に本人と断定されるだろう。 社会から抹消されることが彼女の贖罪としても、その罪はまだ消えていない。 いまだ拳銃の前に多くの人質がいることを考えると、 その悪魔的なソフトウェアの殲滅が、今の彼女に課せられた戦いなのだ。



勝手に始まって、勝手に終わる。
そんな物語が溢れている世の中において、 彼女が語る物語は常に終わりが来るとは限らない。

Chapter82 [雨の日はラビリンス]

傘をつたう雫の行く先が彼女の邸宅を示している。 ニアはまたカルラにさらわれたらしい。 (弟の名はアニというけど、弟なのに兄とはこれ如何に、ということでニアと呼んでいる)

不動さんの後に続いて、玄関に近い一室に入る。 そこに機嫌の良さそうなカルラと、 ふかふかの絨毯にうつぶせになっているニアを見つけたので 「迎えに来たよ、ニア」と呼びかけると「ほら、お姉ちゃんにはこれだ」と、 カルラから一枚の紙と飴を手渡された。 紙には迷路がプリントされていて、ニアもこれに夢中のようだった。 「迷路とは鳥の目、虫の目、じゃないが、 マクロな視点とミクロな視点を同時に訓練する良い遊びなんだよ。 タイムスライスで切り替えられる2つの視点は訓練することで融合させることができる。 そのプロセスが脳にどんな影響を及ぼすのか興味があってね。 それはまるで神の視点じゃないか」 などと言う。 ニアが夢中になっているのを無理につれて帰るのも仕方が無いので、 口の中で飴を転がしながら迷路を注視してみた。

……しばらくしてニアが「解けた!」と言ってカルラにプリントを差し出す。 「結構難しかっただろう?私のお手製だからな」 こちらも負けてられないと、手元の迷路と格闘するが、 どこをどう曲がっても先へ進めない。 よく見ると「これは……」上の壁と下の壁がつながっている箇所がある。 「解けないじゃない!」 「やっと気づいたか、必ずしも解けるものばかりとは限らないんだよ、現実は」 思いっきり口の中の飴を噛み砕いた。 もはや迷路までひねくれている。 外の雨もやんでいたのでニアを早々に連れ帰った。 カルラはひらひらとニアに手を振って微笑んでいた。



ただカルラはそれぞれのエンドにおいて満足し、 次の目的のために自らの身体と精神を酷使している。 倒すことのないドミノをならべるように、 はたから見ればそれは決して満足することのない作業に違いない。

最初のカルラは、 捨てざるは望むものは得られず、 しかしその蒸留作業によって漸近は可能でも決して得られるものではない、 と嘆いていた。 得られた創造源は、それ自身の受容体だけを刺激する。 このため、いったん体外へ出たフィードバック器官は、 その時間遅延の作用が十分に働かない限り、身体への反応ダメージを軽減できる、 というのが最初のカルラの推測だった。 その期間の間、私はマーク・トゥエインの創造性を否定するためのセンテンスを考えていたが、 カルラは我が子を、そしてその子の成果を、 荘厳な額縁にはめて壁に飾ったり、破り捨てて窓から投げ出したりはしていなかった。

次のカルラが必要としたものは(視覚的には)静のみの絵画ではなく、 起因作用を持つグラフィックスモデルだった。 一見して無秩序に出現するパーツを離散ではなく連続の普遍律としてとらえ、 それらの法則を全て暗記した上で再構築する。 その過程で得られる記憶野を次の材料にしたいとカルラは話していた。

Chapter81 [風炎の儀軌]

最近のカルラの状態で、 私にとって最も身近なものはウェクスラーのテストから導き出された数字くらいだったし、 それでも数字自体はいつもどおり高い水準にあるものだからたいして参考にはならなかった。

不動さんに案内され部屋に入る。 奥の窓には外の景色に映し出された映像がゆっくりと形を変えながら、 なにかの暗喩を主張しつづけている。 カルラはベッドの上で上半身を起こして窓を見ている。
タイミングが難しい。
窓を見たまま動かない。
ゆっくりと近づく。
まだ気がつかない。
影が窓に映り込む。
気づいて振り返る。

私はカルラの左後頭部を思いっきり殴りつけた。

カルラはグゥと声にならない声を出しながらベッドの向こうへ転がり落ちた。 どうやら起き上がれないらしく、遠い声で「バカは…これだから…」なんて強がる。 心配して「生きてるね。不動さんを心配させた分もプラスしといたから」 なんて言おうものなら、 「部屋に入るときはノックするなよ。ドアがぶち壊れる」と毒づく。 カルラは起き上がり窓に寄りかかる。 「それに不動は従順な下僕だ。質は悪くても大量のサイトカインとNGFを手に入れてくる。 心配してるならそんなことはしねえだろう。おまえのようなバカぢからじゃないんだ」 と、前のカルラよりも多少口が悪くなっているが、 これは言語野を犠牲にした場合に推定されるロゴスパターンらしい。

そして次のカルラの推測が求めたのは私の力だった。 これは魔法や時空超越などに類するファンタジーではなくて、 単に腕力なのだ。 詳しいことはわからないが、 衝撃によってアストロサイトの働きを抑制しミクログリアを開放するらしい。 ただし度重なる再生のプロセスで不足する栄養因子を補充するため、 サイトカインなどを大量に摂取している、と説明を受けた。

これはカルラのエゴが招くエゴであり、カルラは常に生まれ変わる。 幸いにも(不幸にも?)私や不動さんに関する記憶野は確保しているらしいが、 それも最初のカルラ自身をとどめておくための手段に過ぎず、 いつそれがリサイクルされるかも知れない。 おそらくそのときには、カルラは街路樹の上で羽を休めることができるのだろうと思う。


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